親の変化と私の変化について
取り留めのない愚痴を書こうと思ったのだが、それよりも忘れないように過去の備忘録のようなことを含めて最近の近況を書いてみようと思う。
そう書いているつもりはないが、 読みようによっては不幸自慢のように取れるかもしれないので読むならば注意してほしい。
私の母親は2年ほど前、脳梗塞で倒れている。
具体的に言うと私が大学1年生の冬。「今季一番寒いかも」なんて天気予報で言われていた冬の朝のことだった。
あの頃のことは今でもはっきりと思い出せる。
朝起きて、1階のリビングに私が降りた時に炬燵付近に蹲っていた母は異常だった。意識はあるのに焦点の合わない目、震えて冷えきった指先、言葉の出てこない口。廊下に落ちて引きずられた跡のある便と、開きっぱなしのトイレのドア。
恐ろしかった。ただひたすらに「もしかしたら目の前のこの人は死んでしまうのだ」という気持ちしか生まれなかった。我武者羅に救急車を呼んで、パジャマのまま裸足にスニーカーなんて情けない格好で母の保険証と当時飲んでいた薬を引っ掴んで病院まで搬送してもらった。
そんな格好でも寒さなんて1ミリも感じなかったのは、それくらい必死だったのだと思う。「寒いな」と思ったのは病院についてから、母がカテーテル手術で一命を取り留めたと医者から説明された後だった。
幸いなことに、身体の後遺症はほぼ無いに等しいと言われた。「若干左半身が動かしづらいかもしれませんが、日常生活には問題ありません。恐らくカテーテルで開けた穴が塞がればすぐに歩けるようになりますよ、幸運でしたね」と医者からは微笑まれた。
問題は言葉だった。
母は一命を取り留めたが、その代わりに言葉をほとんど失っていた。
あいうえお表を見せてもそれがわからないと首を振る。文字は震え、書けたとしてもその文字が単語を表すことはなかった。目の前にいる医者と私が会話する内容や、簡単な指示(例:「箸を取ってみて」などの指示)でも理解ができずに固まってしまう。ゆっくりと喋り、ジェスチャーで物を指差したりすればようやく何をしてほしいのか、何を話しているのか理解できる。その程度だった。
これでも軽度な方です。リハビリすればある程度は治りますよ。なんて医者から言われて私は驚愕したのをよく覚えている。これでは仕事はおろか、まともな日常生活でさえ危ういではないか、と。そしてリハビリしたとしても、完全には戻らないのか、と。
それでも母は気丈だった。
カテーテル手術の術後経過観察が終わり、寝たきりから立てるようになった頃。脳神経外科からリハビリ専門の病院に移った母はわからないなりに積極的に本や新聞を眺め、ラジオやTVから言葉を吸収しようとした。
母の病室からはいつも何かしらの音がしていた。それはTVの笑い声だったり、ラジオから流れるクラシック音楽だったり、新聞を捲る音だったり、本を開く音だったり、ノートパソコンのキーボードを恐る恐る叩く音だったりした。
「話せない」「文字が理解できない」という状況は多大なストレスだったのだろう。数週間に2、3度、子供のように癇癪を起こし、途切れ途切れの言葉とジェスチャーで「なんで私の言いたいことがわからないのか」「死んだほうがマシだった」「お前達は私を馬鹿にしている」などと攻められたりしたが、癇癪を起こした後の母はいつも申し訳なさそうな顔をしていた。
私としては母からは幼少期から割と理不尽なことで怒られていたので(昔の母は私が思い通りにならないとよく叩いてくる人だった)、癇癪など特にこれと言って何も思わず「あぁまたか」くらいだった(し、叩かれたり手を出してくる事が無かったので昔より遥かに傷つかなかったかつ罵詈雑言だけならば受け止めるのは楽だった)のだが、母としては申し訳ない気持ちがあったらしい。
今でも当時のことは小学生の頃のように包丁が投げられてこないだけマシな気がしているのだが違うのだろうか。まぁそんなことはどうでもいいのだが。
とにかく母は母なりにリハビリを努力して続けていた。それはリハビリ病院を退院して、家に戻ってきた今もだ。
おかげで昔よりもこちらの会話を理解してくれるようになったし、TVのニュースや料理本などの内容や指示が最低でも8割程度はわかるようになった。文字も短い文章や自分の名前、住所はほぼ書けるようになっている。最初は「ぬ、いさ」(あとで聞いたら牛乳、と打ちたかったらしい)「やほとね、ありません、!?」(何を打ちたかったか思い出せないが何かを伝えたかったと言われた)などと書かれ、高難易度の暗号解読のようになっていたLINEやメールは「牛乳、買う。スーパー(^o^)」「8時、帰る?」などのように意味のわかるメッセージへと変化した。
正直2年でここまで戻るとは想像できていなかった。それほどまでに母の努力は並々ならぬものだったのだ。
そして家に戻ってきた母は、若干だが倒れる前と性格が変化していた。
具体的に言うと、私のやっていることに何も口を出さなくなった。
母は倒れる前、私を管理することが大好きだった。私は大学生になっても大学の授業が遅くまで無い日の門限が18:30だったし、基本的に友人とのディズニーランドはいい顔をされなかった(母はディズニーが嫌いだった)し、私はバイトで月にいくら稼いだか母に毎月報告しなければならなかった。
アニメグッズなど買っていたのがバレたら「こんなもの無駄」と怒られたし、母が気に入っていたり好きなアニメ以外の深夜アニメを録画すると「意味がわかんないこんな話」と否定されたし、図書館で『イラストの描き方講座』みたいな本を借りたのを見つかった時は「なんでこんなものを借りてきたのだ」と2時間程説教をくらった。あの時の正座は割と痛かった。
それが何故だろうか、母が倒れて、家に戻ってきてから怒られることが本当に減った。
まるで別人のようだと今でも思う。
友達と旅行に行きたいと言えば行ってらっしゃいと送り出され、日付を超えない程度なら夜遅く帰っても怒られない。絵を描いていたら上手だねと褒められ、作ったイヤリングを見て、また作ったの?それかわいいねと微笑まれる。見たいアニメを録画すれば、「どんなアニメ?面白い?」と隣に座って私の解説を聞いている。
大学1年生までの生活が嘘のように、私の生活は自由になった。
私は文字を書くのが好きだ。絵を描くことも好きだ。MMDも弄るし、ハンドメイドでアクセサリーを作るのも好きだ。
友人からはやりすぎだと言われるが、残念ながらまだやりたいことが沢山あるような人間だ。
だから、今の生活は趣味に関しては素直に楽しいと思える。
母のリハビリや薬代のこととか、学費のこととか就活のこととかバイトの人間関係とか親戚から年々強まってくる「穀潰しめ…」みたいな目とか、大学にいるグッズ厨からのマウント取りとかストレスの塊になるようなことがありまくってたまに「この世界はクソ、死ねこの野郎が」と口汚く叫びたくなるが、好きなことができてそれを肯定してもらえるということが、こんなにも楽しいことなのだと思っていなかった。
やりたいことをやって、それをバレないように怯えなくていいというのが、こんなにも幸せなことだと思わなかった。
人生はクソゲーって思うしストレスは尽きないけど、そこだけは知れてよかったな、と思う。
以上、これが最近の私の変化と、母についてである。
明日は何しようかな、おやすみなさい。